当家の沿革

  庶民の日常生活も洋風化が進み、日常着としての和服は姿を消し、一部冠婚葬祭の時だけに着用されるようになってしまいました。このような風潮の中でおばなや呉服店も事業継続が難しくなり、昭和62年(1987年)歳末、90年近くに及んだその歴史に終止符を打つことを決意するに至りました。数多くあった佐竹商店街の他の呉服店がこれをきっかけに次々と事業を閉じられることになったことは、寂しくもありますが時代の流れだったと得心しております
 

  明治34年(1901年)頃、日清戦争後の不況(松方デフレと云います)で織物業も大きなダメージを負い、織物業をたたんで家族と共に東京に進出しました。そして長男は日本橋人形町で、四女は下谷竹町(現在地の旧名)で呉服小売業を開業しました。出身地が張地方の池という字名だったので商号を尾花屋呉服店としました。現在のビル名の一部にこの名称を残しております。

  当家は愛知県西部(尾西地方と云います)の一宮市の郊外で、農業を営んでおりました。菩提寺での調査によると、初代とされる人が宝暦5年(1755年)に没と過去帳に記載されているとのことであります。

昭和9年(1934年)震災から
復興再建された店舗
(昭和19年末戦災により焼失)

  関東大地震の際には建物を全焼し、昭和9年にようやく本建 築の復興を果たしましたが、第二次世界大戦が勃発するや、戦争に関係のない産業は企業整備という名目で廃業を余儀なくされ、一時期軍用通信機の請け工場となっておりましたが、昭和19年(1944年)年末に空襲により全焼しました。敗戦と共に日本経済は大混乱となり、商店街活動などはままなりませんでしたが、昭和25年頃から徐々に回復の兆しが現れ、物資の統制も解除品が増えてゆき佐竹商店街も段々にもとの賑やかさを取り戻してゆきました。

(明治20年頃の酒井織工場)

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  多くの方々のご協力を得て、昭和63年のほぼ1年間をかけて現在のビルを建設いたしました。今日まで数多くの皆様に当ビルをご利用いただき、心から感謝申し上げております。この場をお借りして御礼申し上げます。

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昭和30年(1955年)本格復興した店舗

関東大震災で焼失した店舗と当時の従業員

 文久3年(1863年)頃とされておりますが、第7代当主の理一郎は、当時の尾西地方(尾張の西部)に勃興した機業熱に刺激されて、自らも織物業に転身、当時は珍しかった一貫生産と、綿織物だけでなく綿と絹、や毛と絹の交織織物の製品化に成功し、また織機の改良や新鋭機の導入など地方の先駆として成功を収めておりました。